批評の品格
学生時代の恩師曰く
「批評とは愛である。」
そんな馬鹿なと思うだろうが、あと二行だけお付き合いを願いたい。
世に言う批評や批判という概念と、学術的な意味には大きな違いがある。
それは何かと言えば、批評した側・批判した側にきちんとした責任を求めるからだ。
「○○を俺は好きじゃねぇ。」
これは批評ではない、感想だ。
「○○をすることは私は反対です。」
これは批評ではない、意見の表明です。
では批評とは何か。それは批して評価することだ。
つまり、比べるべき対案を示して相手の批評対象の意見をより向上させることが
批評の目的であり相手の立場や意見を批判し叩き潰すことを批評とは言わないのである。
この違いをわからずに政治家やコメンテーターを名乗る言論人は建設的な議論を放棄している。
学者の生命線はそれぞれの論説の論理的な正当性と、学業の発展という大命題がある。
それに対して個人の名誉や尊厳などは二の次である。
そして、批判検証可能でない意見は科学ではない。
必ずその方向性でより良い意見や発展した答えが存在している。それを複数の人間の思考でたどり着く尊い行為が批判・批評であり感想や意見の表明を批評と勘違いする輩とは似て非なる行為である。
批評するならば、相手の意見に敬意と愛を持ち検証可能な反論を用いて相手の意見を向上させる提案をしてこそ批評家を名乗っていただきたいものである。
そもそもが民進党や維新の党が使っている提案型野党というフレーズがあること自体が日本の民主主義のレベルを貶める行為だ。提案型の野党なんて概念を作る必要がないぐらいに野党が提案や批評を行なっていないという証左だからだ。
もちろん無いものを目指すことは向上心に基づく尊い行為である。
是非今提案型の野党というものがないなら積極的に作って言ってほしいし、逆に提案型でない野党などというものは解党してしかるべしであろうと思う。
批評をすることで本来問われるべきは、その個人の品格と適正である。
決して批評されている側に注目するのではなく、批評者の方にこそ注目がされる社会になってほしいものである。